富山のデザインを拡いた達人シリーズ


(明治40年〜昭和53年 享年71歳)
物心ついたころから絵を志し、京都「とういす塾」で絵と文字を学んだ。富山に帰ってからは、父の祖父の関係から、東新地の演舞館で舞台の背景を描いていた。このころ母(愛子)と知り合い私が生まれている。この後、当時東京から富山の映像産業発展のため招聘されていた気鋭の宮田八十吉氏に師事した。エビス堂の先代とは兄弟弟子で、組合の全国大会にもよく連れ立って出かけていた。当時は、活動写真の全盛期に向かう頃で、阪東妻三郎の「辻の十人切り」や嵐勘十郎の「鞍馬天狗」が大流行。しかし、修行時代は大変過酷な労働を強いられていたようで、まだ北陸本線が開通していない当時に、「時代劇」の本場、京都の撮影所までフィルムを担ぎに行き、そして封切りに間に合わせたと聞いている。その後、「曙波(しょは)」と号し、富山市清水町に「曙波堂」を開業したが、風雲急を告げる軍国主義時代。支那事変、満州事変、太平洋戦争と続き、わが商業美術界の暗黒時代へと向かっていった。戦時中は、何度か応集を受けたが、終戦の年に復員し、几帳面な技術屋として、軍需工場の立山重工で軽便機関車の製図の仕事をしていた。しかし、悪化する南方の戦局を免れたことにより、一命を取りとめている。空襲にあった後、焼け野が原の富山市清水町(音羽町)に掘立て小屋を建て、一家6人で雨露をしのぐ生活を強いられていたが、立山重工の捕虜収容所がアパートとして開放されたのを機にそこに移住。まぶしく光る裸電球の輝きが目に焼き付いている。
戦後、一時期ハマ企画(当時の濱塗装店)にもお世話になっている。1962年10月富山宣伝社で営業をしていた長男(幸光現会長)と東京中川堂(現中川ケミカル)に勤務していた次男(紀和現社長)と共にオカダアートを創立し、自らは会長として再起を果たした。

岡田幸光氏「父を語る」